作品は、誰かの手に渡ったとたん……
作品は、誰かの手に渡ったとたん、その誰かのものになる
読者との協働作業としての絵本創作
絵本をつくるとき、わたしたちはどうしても「つくり手」の視点に立ってしまいます。
この表現で伝わるかな。このページ、読み手に届くかな。わたしの想い、ちゃんと受け取ってもらえるかな――。
制作中は、どうしても自分の意図や思いが正確に伝わることばかりを考えてしまいがちです。「この色合いで、悲しさが表現できているだろうか」「この表情で、主人公の気持ちが分かってもらえるだろうか」「読者は、わたしが込めたメッセージを理解してくれるだろうか」
でも、ひとたびその絵本が誰かの手に渡ったとたん、その瞬間から、その絵本は”読み手のもの”になります。
作品に宿る新しい命
作者の手を離れた瞬間、作品は新しい命を宿します。それは、作者が想像もしなかった生命力かもしれません。
- ある読者は、それを「母との別れ」の物語として受け取るかもしれません
- ある子どもは、「ずっとそばにいたぬいぐるみ」のことを思い出すかもしれません
- また別の人は、「初めて挑戦した日」の記憶と重ね合わせるかもしれません
読み手が自分の物語として受け取る瞬間
たとえば、あなたが「ひとりでがんばってきた人」を思って描いた絵本があるとします。そして別の誰かは、「友だちとの約束」を思い浮かべるかもしれません。それは、読み手が”自分の物語”として絵本を受け取った証拠。
受講生の体験:小さな種の物語
彼女が描いた「小さな種の物語」について、ある読者からこんな感想をもらったそうです。
「この絵本を読んでいたら、亡くなった祖母が庭で野菜を育てていた姿を思い出しました。祖母は『小さな種でも、大切に育てれば立派に育つのよ』と言っていたんです。この絵本は、わたしに祖母を思い出させてくれました」
作者の意図を超えた読み取り
作者は種の成長を通して「努力の大切さ」を描いたつもりでした。でも読者は、そこに「家族の愛」や「記憶の継承」を見つけたのです。
作者の意図とはちがっていてもいい。むしろ、ちがっていい。あなたの絵本が、だれかの心の引き出しを開けたなら、それだけで、もう充分なんです。
これは決して作者の「敗北」ではありません。むしろ、作品が読者の人生に寄り添えた証拠なのです。
表現のバランス──デフォルメという技法
絵本は、写実ではなく「記号」に近い表現で語られます。だからこそ、読み手が”自分の経験”を重ねやすいのです。
「どこまでデフォルメするか」のさじ加減
でも、ここでバランスが重要になります。
- 表現がリアルすぎると――読者の「解釈の余白」がなくなってしまう
- 逆にぼかしすぎると――メッセージが霧の中に消えてしまう
- この絶妙なバランスこそが、絵本作家の腕の見せ所
- 読者の想像力が入り込む余地を残すことが重要
悲しみの表現方法による違い
例えば、「悲しみ」を表現するとき。涙の一粒一粒まで丁寧に描くのか、それとも俯いた横顔のシルエットだけにするのか。後者の方が、読者は「自分が悲しかった時」の記憶と結びつけやすくなります。
写実性と抽象性のバランス
写真のようにリアルに描けば描くほど、読者の想像力が入り込む余地は狭くなります。一方で、あまりに抽象的すぎると、読者は何を受け取ればいいのか分からなくなってしまいます。
具体例:ある受講生の「おにぎりの話」
ある受講生が描いていた作品があります。タイトルは『おにぎり、たべたよ』。主人公の子が、ひとりでおにぎりをにぎって、ひとりで食べるだけの、シンプルな話でした。
当初はとてもリアルに描かれていました。炊飯器の音、具材の細かな描写、キッチンの様子、使っている食器、窓から見える景色まで。ひとつひとつの動作も、手の角度から表情の変化まで、丁寧に描き込まれていました。
削ぎ落としによる劇的変化
でも講師のアドバイスで、思い切って”詳細を削ぎ落とし、「手の動き」だけに絞った表現”に変えてみました。キッチンの背景は白いページに。炊飯器も、具材の描写も、すべて取り除きました。残ったのは、小さな手がお米を握る瞬間と、それを口に運ぶ仕草だけ。
- 「おにぎり=記憶の味」と読む人
- 「がんばった証」として受け取る人
読者の反応の変化
そうしたら、読み手によって受け取り方が劇的に変わったのです。ある読者は「母が作ってくれたおにぎりの味を思い出した」と言い、別の読者は「一人暮らしを始めた日のことを思い出した」と感想を寄せました。
削ぎ落としの真実──デフォルメは”嘘”じゃない
デフォルメとは、嘘をつくことではありません。伝えたい気持ちにフォーカスを当てるために、他の情報を手放すこと。
現実の本質を浮き彫りにする技法
実際の出来事をそのまま描くのではなく、その出来事の「核心」だけを取り出すのです。これは現実を歪めることではありません。むしろ、現実の本質を浮き彫りにすることなのです。
デフォルメの具体的手法
- ほんとうは5人いたけど、物語上は1人に絞る
- 実際はお弁当だったけど、表現上は「りんご1個」にする
- 泣きじゃくった自分を、絵では「まるくうずくまった影」に描く
それだけで、読者は”これはわたしの話かもしれない”と感じはじめます。
WCCの講師からのメッセージ
「絵本は『事実』を伝えるメディアではなく、『真実』を伝えるメディアです」事実は一つですが、真実は人の数だけあります。だからこそ、絵本は事実よりも真実に寄り添うのです。
作品が自由になる瞬間
WCCの卒業生が、こんなことを話してくれました。
転校の不安がペットロスになった瞬間
その卒業生が描いたのは、「転校」をテーマにした絵本でした。新しい環境に馴染めない主人公の心の動きを描いた作品です。ところが、その読者は全く違う読み方をしていました。
「この絵本を読んで、亡くなった愛犬のことを思い出しました。主人公が感じている寂しさが、ペットを失った時の気持ちと重なって…」
作者が描いた「転校の不安」を、読者は「ペットロス」として受け取ったのです。形は違っても、感情は通じ合えたんです。
届けることは、手放すことでもある
だからこそ、「見せること」には、少しのこわさが伴います。作品を世に出すということは、自分の内側にあった大切なものを、見知らぬ誰かに委ねることでもあります。
不安を乗り越える”真ん中”の力
でも大丈夫。あなたの”真ん中”がちゃんと描かれていれば、受け取り方は、読み手に委ねていい。
作品の根っこを育てる
WCCでは、よく「作品の根っこを育てましょう」と話します。美しい絵や巧妙なストーリー構成も大切ですが、それ以上に大切なのは「なぜその話を描くのか」という根っこの部分です。
読者との協働作業としての絵本
実は、絵本は作者だけで完成するものではありません。読者が想像力を働かせることで、初めて本当の意味で「完成」するのです。
時間とともに変わる読まれ方
さらに興味深いのは、同じ人が同じ絵本を読んでも、時期によって受け取り方が変わることです。
あなたの絵本が旅立つとき
あなたが描いた絵本は、もうすぐ、あなたの手を離れようとしています。そのとき、きっと少しの寂しさと、大きな期待を感じることでしょう。
手放すことの美しさ
でも、手放すことは失うことじゃない。誰かの人生に、そっと居場所をつくってあげること。
あなたの絵本は、今度は読者の本棚で、読者の記憶の中で、新しい命を宿します。そして読者の人生の様々な場面で、ひっそりと寄り添い続けるのです。そのとき、絵本は”あなたのもの”から、”あの人のもの”になる。そして、それでいいのです。
むしろ、それこそが、絵本作家としての最高の喜びなのかもしれません。あなたの作品が、どこかで誰かの心に寄り添っている。その事実だけで、創作することの意味は十分すぎるほどに満たされているのです。